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なかなか定義が難しい言葉ですので、ある意味独善的な文章になりかねませんが、結論からいいますと個人を大事にするこころは御仏に叶い、自分だけを大事にするこころは生まれ変わっても人間になれる保証がないこころです。
キリスト教国家は、比較的早くから個人主義が生活のベースにあって自分も尊重するし、他者の存在も尊重するという家族単位ではなくキリストを頂点とするピラミッドができあがっていたように思います。日本の場合は、神仏混合の国家で、死んだら仏様になり、困ったときは神様にお願いするという独特な慣習を継承してきています。
国民性がもともとそうなのか、神仏混合がそのような国民性を作り上げてきたのかは分かりませんが、日本民族にそのようなご都合主義的なところがあるのかも知れません。それは地形的に海に囲まれて、新天地を求めて外にでていくという選択も遮断され、人との調和の中でしか人生を送れないという絶望感がもたらしたものかも知れません。
戦後、アメリカ文化とともに入ってきた個人主義は、時代とともに変形を繰り返しながら、今日に至っています。個人主義が利己主義と同一視された時期も過去にはありましたが、現在では、人にも干渉しない代わりに自分にも干渉しないでほしいという生き方の代名詞になっているようです。
六道輪廻の観点からいいますと、この人間界で生きるという事は、様々な体験をとおして「こころの浄化」をお土産代わりに次の道に入っていくことを意味しています。様々な体験とは花や自然との関わりだけではなく、人人との関わりから生まれる体験をさしています。
今風の個人主義では、次の道に入る時のお土産もなく、なかなか挨拶もしずらいかも知れませんよ。
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