ホームこころネットワーク人は非力を知ってはじめて

 

特に能力に優れたと自分で思っている人ほど、「頑張れば何とかなる、信念は岩をも通す・・」と自分の力を過信しがちです。おおいに努力して、切磋琢磨することはすばらしいことなのですが、一歩間違えると、独善的になりやすく、狭い視野でしかものごとが見えなくなってしまう危険があります。

その昔、白河上皇は「加茂川の水・双六の賽・山法師だけは自分の思い通りにならない」と嘆かれたそうですが、人の力をもってしては、何とも解決できないことが、この世の中にはたくさんあります。生もそうであり、死もそうです。それ以外にも人のこころや自然の力など、万物の霊長たる人間をもってしてもかなわない事です。

人は生きている間に、さまざまな進化を遂げていきます。成長といってもいいのですが、全く別人のようになる人もいるので、進化というイメージが妥当のようです。文章にも起承転結があるように、人生にも同じような流転があり、中国の儒学者もさまざまな表現で、人の道を説いていることは皆様もご承知のとおりです。

人は、その生立ち上、どうしても相対的な評価を求めます。他人と比べて自分のいる位置や段階を認識しようとします。精神的安定を維持するには、それが最も手っ取り早いからでしょう。
しかし、誰しも一生に一度ぐらいは、自分の力などでは、どうしようもない事があることに遭遇します。その時に、「これはどうしようもない事だから、まあ諦めるしかないな」と諦観してしまうか、そうでないかによって自分のこころが開けていくかどうかの分水嶺だと思います。

他人と比べずに、御仏と自分を比べることによって、人の非力さ、この世に存在するものの非力さを知り、何かを行動したあとも、すぐに結果を見ずに、ただひたすら御仏に祈って、成就をお願いする。このような謙虚な気持ちが生まれてくると思います。

苦しい時の神頼みでもいいのですが、自分のことを祈っても誰も聞いてはくれません。人のために、自分以外のもののために、祈ってこそ初めて御仏も耳を傾けてくれますし、日常にあってもそのような人間が身近にいれば応援したくなるのではないでしょうか。

 

 

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